名前を呼ばない文化。
未開のある社会では、敵の部族に自分の名を知られることをおそれたという。名こそ正体であり、いま一つ言えば正体が生命で、名が暴露されることによって生命の核を射ぬかれるようなおそれを共有していた。
それにやや似た感覚が、上代以来、日本の社会にもつづいている。中世の貴族はたがいに官名か、邸の所在地で相手を呼びあった。決して道長殿とか、頼朝殿とかは呼ばず、また江戸期のやくざでも、勢力のある連中をよぶ場合は相手が居住する村の名でよんだ。忠治とはよばず、在所の名をとって「国定の」とよび、また次郎長とはよばずに「清水の」とよぶようなぐあいであった。江戸期の庶民でも、法事などで集まっていて誰かがまだ来ない場合、尾張町はばかに遅いな、というふうに呼称した。明治になっても「真砂町の先生」とよんで、その姓を(まして名を)よぶ非礼を懼れた。
このことはいまもつづいている。相手をとくに尊ぶ場合、同じ会社でなくとも、部長とか、常務とかいったふうによぶ。敬称というよりもむしろ相手の姓をよぶことによって相手のなま身を露わにするようなことをしてはいけないという伝統的な感覚が生きのこっているということであろう。私は小企業の(商店というほどの)ぬしがあつまっている席に居あわせて、数人が互いに「社長、社長」とよびあっているのをきいて、鳥の啼く声をきいているようなふしぎさを感じたことがある。
つまりは相手の人格や存在に紗(うすぎぬ)をかけてあいまいにしておくことによって敬意をあらわしている。姓をよべば、それは学校のときに数学が0点であった男であり、長じては贈賄罪で起訴された男であり、胃潰瘍で入院した男でもあるという相手のすべてのなまが出てしまうという気づかいの感覚が文化としてわれわれの社会にあるのにちがいない。
司馬遼太郎「ひとびとの跫音」ー「タカジという名」より、抜粋。
名前を呼ばない文化、というのは、司馬に言わせれば未開文化の名残りである。確固とした個人主義を確立した上で、互いを素のままの存在として認めあい、互いを名前で呼び合えるような「文明化」が、果たして日本において可能なのかどうか。
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