書籍・雑誌

2008年9月12日 (金)

名前を呼ばない文化。

 未開のある社会では、敵の部族に自分の名を知られることをおそれたという。名こそ正体であり、いま一つ言えば正体が生命で、名が暴露されることによって生命の核を射ぬかれるようなおそれを共有していた。
 それにやや似た感覚が、上代以来、日本の社会にもつづいている。中世の貴族はたがいに官名か、邸の所在地で相手を呼びあった。決して道長殿とか、頼朝殿とかは呼ばず、また江戸期のやくざでも、勢力のある連中をよぶ場合は相手が居住する村の名でよんだ。忠治とはよばず、在所の名をとって「国定の」とよび、また次郎長とはよばずに「清水の」とよぶようなぐあいであった。江戸期の庶民でも、法事などで集まっていて誰かがまだ来ない場合、尾張町はばかに遅いな、というふうに呼称した。明治になっても「真砂町の先生」とよんで、その姓を(まして名を)よぶ非礼を懼れた。
 このことはいまもつづいている。相手をとくに尊ぶ場合、同じ会社でなくとも、部長とか、常務とかいったふうによぶ。敬称というよりもむしろ相手の姓をよぶことによって相手のなま身を露わにするようなことをしてはいけないという伝統的な感覚が生きのこっているということであろう。私は小企業の(商店というほどの)ぬしがあつまっている席に居あわせて、数人が互いに「社長、社長」とよびあっているのをきいて、鳥の啼く声をきいているようなふしぎさを感じたことがある。
 つまりは相手の人格や存在に紗(うすぎぬ)をかけてあいまいにしておくことによって敬意をあらわしている。姓をよべば、それは学校のときに数学が0点であった男であり、長じては贈賄罪で起訴された男であり、胃潰瘍で入院した男でもあるという相手のすべてのなまが出てしまうという気づかいの感覚が文化としてわれわれの社会にあるのにちがいない。

司馬遼太郎「ひとびとの跫音」ー「タカジという名」より、抜粋。
名前を呼ばない文化、というのは、司馬に言わせれば未開文化の名残りである。確固とした個人主義を確立した上で、互いを素のままの存在として認めあい、互いを名前で呼び合えるような「文明化」が、果たして日本において可能なのかどうか。

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2008年9月 4日 (木)

「見切る」

赤壁屋道斎の子で、道意という少年がいた。
武蔵は道斎からたのまれて、この道意に兵法を教えた。あるときこの少年が、
「お師匠さま。兵法は、どういう心得で修行すれば上手になれますか」
「わけはござらぬ」
武蔵は、部屋の敷居を指さし、
「あの上を歩けますかな」
少年は即座に、
「歩けると存じます」
「されば、あの敷居を一間も上へ吊りあげたとしたら、渡れるか」
「はて、、それは怖うございますな」
「では、敷居の幅を三尺にすれば?」
少年はちょっと考え、
「渡れまする」
「それを見切りという。自分が、これなら自分の手に合うという判断の範囲が、見切りである」
見切るというのは、武蔵独特の術語である。あとで述べるが、この見切りの術が、武蔵の兵法の特徴というべきものであった。
「されば、その三尺幅の板を、姫路のお天守から僧位山の頂上まで橋のごとくわたしたとしたら、おことは渡れようか」
少年は想像するだけでおびえ、
「それは見切れませぬ」
武蔵は、そこよ、とうなずき、
「モトモトは三尺幅の板にすぎない。その位置が一尺の高さであろうと百丈の高さであろうとおなじことであるべきである。しかし百丈ならば、落ちれば死ぬという不安の心がおこる。兵法とは、不安を殺すことであり、よく見切って、不安を殺せば、たちどころに達人になれる」

「真説宮本武蔵」より、抜粋。
まさに「見切り」こそ兵法の極意。ケンカも大戦争も、全て、いかに相手と自分の力を合理的精神を持って「見切る」ことができるか、その一点にかかっている。

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2008年7月17日 (木)

インド的思考法。

「儒教は世俗の作法にすぎない」
と、国費で儒学を学ぶ空海は考えている。中国文明は宇宙の真実や生命の深秘についてはまるで痴呆であり、無関心であった。たとえば中国文明の重要な部分をなすものが史伝であるとすれば、史伝はあくまでも事実を尊ぶ。誰が、いつ、どこで、何を、したのか。そのような事実群の累積がいかに綿密でぼう大であろうとも、もともと人生における事実など水面にうかぶ泡よりもはかなく無意味であると観じきってしまった立場からすれば、ばかばかしくてやる気がしない。
 インド人は、別の極にいる。
 この亜大陸に成立した文明は奇妙なものであった。この亜大陸には、史伝とか史伝的思考といった時間がないのである。生命とは何かということを普遍性の上に立ってのみ考えるがために、誰という固有名詞の歴史もない。いつという歴史時間もなかった。すべて轟々として旋回する抽象的思考のみであり、その抽象的思考によってのみ宇宙をとらえ、その原理をひきだし、生命をその原理の回転のなかで考える。自分がいま生きているということを考える場合、自分という戸籍名も外し、人種の呼称も外し、社会的存在としての所属性も外し、さらには自分が自分であることも外し、外しに外して、ついに自分をもって一個の普遍的生命という抽象的一点に化せしめてからはじめて物事を考えはじめるのである。従って、歴史や社会的思想などという、漢民族が大切にするすべてはインド人の思考法のなかにはかけらほども入って来ることができない。

司馬遼太郎「空海の風景(上)」より、抜粋。
非常に分かりやすい。司馬の理屈に僕的に解釈をくわえるなら、インドの苛烈酷列極まる自然や大地が、そういうどうしようもない、ギリギリのところまで人間を追いやった(?)インド的思考法を産み出したのではないか。逆に言うと、中国のように温暖で生命に優しい環境下にあって、抽象的思考法はまるで必要なかったのである。

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2008年7月 6日 (日)

司馬遼太郎・全長編/短編小説 覚え書き

(★は読了、☆は未読作品)

長編
★梟の城(1959年9月、講談社)
☆上方武士道(1960年11月、中央公論社 ※『花咲ける上方武士道』に改題し、1996年、中央公論社)
☆風の武士(1961年5月、講談社)
★戦雲の夢(1961年8月、講談社)
★風神の門(1962年12月、新潮社)
★竜馬がゆく(1963 - 66年、文藝春秋新社)
★燃えよ剣(1964年3月、文藝春秋新社)
★尻啖え孫市(1964年12月、講談社)
★功名が辻(1965年6、7月、文藝春秋新社)
☆城をとる話(1965年10月、光文社)
★国盗り物語(196511月 - 66年7月、新潮社)
★北斗の人(1966年11月、講談社)
★俄 浪華遊侠伝(1966年7月、講談社)
★関ヶ原(1966年10 - 12月、新潮社)
★十一番目の志士(1967年2月、文藝春秋)
★最後の将軍(1967年3月、文藝春秋)
★殉死(1967年11月、文藝春秋)
★夏草の賦(1968年1月、文藝春秋)
★新史太閤記(1968年1月、新潮社)
★義経(1968年5月、文藝春秋)
★峠(1968年10月、新潮社)
★宮本武蔵(1968年、朝日新聞社『日本剣客伝』収録)
★坂の上の雲(1969年4月 - 72年9月、文藝春秋)
☆妖怪(1969年5月、講談社)
★大盗禅師(1969年7月、文藝春秋)
★歳月(1969年11月、講談社)
★世に棲む日日(1971年5 - 7月、文藝春秋)
★城塞(1971 - 72年、新潮社)
★花神(1972年8月、新潮社)
★覇王の家(1973年10月、新潮社)
★播磨灘物語(1975年6 - 8月、講談社)
★翔ぶが如く(1975 - 76年、文藝春秋)
★空海の風景(1975年10月、中央公論社)
★胡蝶の夢(1979年7 - 10月、新潮社)
★項羽と劉邦(連載時は「漢の風 楚の雨」。1980年6 - 8月、新潮社)
★ひとびとの跫音(1981年7月、中央公論社)
★菜の花の沖(1982年6 - 11月、文藝春秋)
★箱根の坂(1984年4 - 6月、講談社)
★韃靼疾風録(1987年10、11月、中央公論社)

短編集
大阪侍(1959年12月、東方社)
「和州長者」「泥棒名人」「盗賊と間者」「法駕籠のご寮人さん」「大坂侍」「難波村の仇討」
最後の伊賀者(1960年11月、文藝春秋新社)
「外法仏」「下請忍者」「伊賀者」「最後の伊賀者」「蘆雪を殺す」「天明絵師」
果心居士の幻術(1961年3月、新潮社)
「八咫烏」「朱盗」「牛黄加持」「果心居士の幻術」「飛び加藤」「壬生狂言の夜」
おお、大砲(1961年10月、中央公論社)
一夜官女(1962年3月、東方社)
「雨おんな」「侍大将の胸毛」「伊賀の四鬼」
真説宮本武蔵(1962年11月、文藝春秋新社)
「越後の刀」「真説宮本武蔵」「京の剣客」「千葉周作」「奇妙な剣客」「上総の剣客」
花房助兵衛(1963年10月、桃源社)
幕末(1963年12月、文藝春秋新社)
「桜田門外の変」「奇妙なり八郎」「花町屋の襲撃」「土佐の夜雨」「逃げの小五郎」「死んでも死なぬ」「浪華城焼討」
新選組血風録(1964年4月、中央公論社)
鬼謀の人(1964年7月、新潮社)
酔って候(1965年3月、文藝春秋新社)
「酔って候」「きつね馬」「伊達の黒船」「肥前の妖怪」
豊臣家の人々(1967年12月、中央公論社)
王城の護衛者(1968年5月、講談社)
「加茂の水」「王城の護衛者」「英雄児」「鬼謀の人」
喧嘩草雲(1968年5月、東方社)
故郷忘じがたく候(1968年10月、文藝春秋)
「胡桃に酒」「斬殺」「故郷忘じがたく候」
馬上少年過ぐ(1970年8月、新潮社)
「貂の皮」「城の怪」「重庵の転々」「慶応長崎事件」
木曜島の夜会(1977年、文藝春秋)
「有隣は悪形にて」「大楽源太郎の生死」「木曜島の夜会」
おれは権現(1982年、講談社文庫)
「愛染明王」「おれは権現」「信九郎物語」「助兵衛物語」「覚兵衛物語」「けろりの道頓安井道頓」
アームストロング砲(1988年、講談社文庫)
「アームストロング砲」「理心流異聞」「侠客万助珍談」「倉敷の若旦那」「五条陣屋」「斬ってはみたが」「大夫殿坂」
ペルシャの幻術師(2001年、文春文庫)
「兜率天の巡礼」「ペルシャの幻術師」「戈壁の匈奴」
侍はこわい(2005年、光文社文庫)
「権平五千石」「豪傑と小壺」「忍者四貫目の死」「狐斬り」「ただいま十六歳」「侍はこわい」「みょうが斎の武術」「庄兵衛稲荷」

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2008年2月24日 (日)

宮本輝の「流転の海」にハマった。

人間は、時として、人智を超えた、不可思議な力に揺り動かされて生きている。
ある人はそれを「運命」と呼び、またある人は「宿命」と名付けてみたりするが、いずれにせよ、それは人間の力ではいかんともしがたいものとして理解されている。

しかし、だ。
もし、そうしたものに支配されることを甘んじて受け入れざるを得ないとするのなら、人の人生なんて、あまりにも虚無的なものになってしまうとは思わないか。確かに、そういう人智を超えた、目に見えざる力はあるのだと思う。しかし、それに太刀打ちする方法は本当にないのだろうか。運命や宿命をただあきらめて受け入れるのではなく、それと徹底的にケンカするすべはないのか。そんな定めのようなものを、無理矢理にでも方向転換する武器はないのか。

宮本輝の「流転の海」シリーズにハマっている。
現在、第5部「花の回廊」まで刊行されているが、作者自身、一体何部で終了するのか、そのめどがいまだ立っていないらしい。いわば作家・宮本輝のライフ・ワークがこの物語なのだが、その中で輝は自分の父親をモデルとする主人公、松坂熊吾を通して、そういう、本来ならば哲学なり、宗教なりが論じるべき範疇のものを、己の文学の中で語らせようと試みている。仏法には十界互具という言葉ある。二乗の生命である、声聞や縁覚の生命状態の中にも、仏界は存在するのだとすれば、彼が作家としてその密やかな「野望」を実現することも可能なはずである。

昭和22年の伸仁誕生に始まった物語は10年ほどが経過した。しかし、いまだ熊吾も、房江も、伸仁も、人間の「星廻り」との大ゲンカの術を知らないままに、高度成長まっただ中の大阪の街を、けなげに、一生懸命に生きている。読書家で有名な俳優・児玉清が何かで言っていたけれど、ここまでくると、松坂一家はもはや自分の親戚さながらである。物語の結末も気にはなるけれど、完結してほしくもない。松坂の大将や、房江さんや、ノブに、いつでも会いに行けるよういつまでも彼らに大阪の街をフラフラさせておいてほしいという気持ちも、なきにしもあらず。

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宮本輝著「流転の海」(新潮文庫、590円)、「地の星 ー流転の海・第2部ー」(新潮文庫、705円)、「血脈の火ー流転の海・第3部ー」(新潮文庫、743円)、「天の夜曲ー流転の海・第4部ー」(新潮文庫、743円)、「花の回廊ー流転の海・第5部ー」(新潮社、2000円)

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2008年1月12日 (土)

「殉死」

また司馬遼に戻ってきちまった‥‥‥(笑)。
やっぱりいいねぇ、司馬節。

昭和の戦争で、その末期、国民挙げてのヒステリー現象がおこった。いわゆる「カミカゼ」特攻というやつである。しかしながら、日本人がああいう無茶苦茶な戦い方をしたのは、なにもカミカゼが初めてではない。西南戦争の折、薩摩軍は何かに憑かれたように熊本城のみに脚を取られ、田原坂でアホのような突撃を繰り返したし、日露戦争の旅順攻略戦では本作の主人公率いる第三軍が同じように、兵士の屍の山をただ築くだけの自慰行為を繰り返した。司馬の痛烈な乃木批判は、昭和のヒステリーを実地に経験したものだけが持ちうる実感であろう。乃木のストイシズムは、一個の人間のあり方としてはいい。しかし、一軍の将としては致命的であった。


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司馬遼太郎「殉死」(文春文庫、390円)

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2008年1月 7日 (月)

「最後の将軍ー徳川慶喜」

関ヶ原で家康率いる東軍に対して、陣構えも、その総力も、三成率いる西軍に分があった。しかしながら、時勢は三成に味方しなかった。それから260年の時を経て、今度は同じことが家康の子孫の身に降り掛かる。薩長連合軍に対して、幕府軍は圧倒的優位を誇示しつつ、ついに時勢を味方につけることはできなかった。徳川幕府最後の将軍・慶喜という人の面白み、そして凄みは、その時勢という魔物の存在を常に意識しつつ行動した点にある。

胆力に欠けるだとか、優柔不断だとか、何考えてるのか分からなくて気味が悪いとか、いろいろ言われちゃう「最後の将軍」だが、彼には「時勢」という魔物の姿が見えちゃって見えちゃって仕方がなく、その結果が彼の一見一貫性に欠けた諸行動になって現れたのではないか、というのが司馬遼的「慶喜観」である。

300年も昔に、ご先祖様が豊臣家を討ち滅ぼした同じ場所(大阪城)で、今度は討ち滅ぼされる側にまわってしまった幕府軍の姿を見ていると、何か不思議な因縁めいたものを感じざるにはいられない。普通に考えるならば、慶喜ちゃんもさぞかし無念だっただろうなぁ、、、ということになるのだが、その実ご本人はそういったものに対する未練などこれっぽっちもない、というあたりが実に生まれながらにして貴族人というかなんというか。その辺が嫌われちゃう所でもあるが、魅力といえばこの上もない魅力である。

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司馬遼太郎著「最後の将軍ー徳川慶喜」(文春文庫、476円)

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2007年12月31日 (月)

「零式戦闘機」

2007年後半の通勤電車のお供はひたすら吉村昭だったなー。
今年ラストは「零式戦闘機」。昭和の戦争ものは駄目だ……ひたすら気分が滅入る。

時代遅れの「戦艦武蔵」よりは、ものが戦闘機、特に一時期は無敵を誇った戦闘機だけに、花がある。
ただその無敵のゼロファイターを牛車で名古屋から各務原の飛行場まで、24時間かけて運んでいたというのだから、何をか言わんやである。その時代、既に家の母親は幼年期を彼の地で過ごしていたはずだから、幼い彼女の目に、実は吉村の描いた零戦を運ぶ牛車の姿がとらえられていたかもしれないと思い、年末、実家に帰ったときになにげに聞いてみたけれど、覚えちゃなかった。。。

吉村昭はこれにて、一時休憩。
来年は司馬遼太郎の未読作品からスタートだ。

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吉村昭著「零式戦闘機」(新潮文庫、476円)


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2007年12月22日 (土)

「戦艦武蔵」

昭和の戦記物を読んでいて、虚しさを覚えるのは僕だけだろうか。
それは明治の時代まで生き続けていた日本人の合理性がいっさい影を潜め、
ただただ精神性だけが大きな顔をしてのさばっていた時代だからだ。
戦後の日本人が言葉や精神的なものに「うさんくささ」や「嘘寒さ」といったものを感じているとすれば、その根っこはこの時代に日本人が経験したことにあるのかもしれない。

飽和点を超えて肥大化しすぎたものは、いつかそ巨体を自ら支えることが出来なくなり、崩壊する。「日露戦争」がその飽和点であったとするなら、昭和の日本は肥大化しすぎた国家だったのだろう。肥大化した国家はいつしか合理性を失い、精神性という幻影で失われたものを補おうとする。

この物語の主人公は鉄のかたまりである。
それは肥大化しすぎた日本という国家の抱いた幻影であり、合理性を失った国家そのものの象徴である。
だからその誕生は華々しくも、その死へと至る過程はあまりに悲劇的である。

戦艦武蔵は何のために生まれ、何のために死んでいったのか。
まるでわからない。

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吉村昭著「戦艦武蔵」(新潮文庫、438円)

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2007年12月17日 (月)

「関東大震災」

大地震という自然災害も怖いが、それよりもそれによって引き起こされる人心の錯乱がもっと怖い。だけど、万単位の人間の死を目の前にして、人は人でいられるのだろうか。

本所深川の陸軍被服廠跡地での大惨事、浅草吉原公園での娼婦たちの生き地獄、そして死体処理の生々しい記録。物語の至る所で、僕の想像力を絶した世界が展開する。しかし、後々まで尾を引く怖さは、流言蜚語に目の前が見えなくなっていく「人間」そのものに対する恐怖である。

この物語は、かなりの覚悟を決めて取りかからねばならない。
山崎豊子の「沈まぬ太陽ー御巣鷹山編ー」と同質の覚悟が読み手には必要である。
そんじょそこらの想像力では、完全にこちら側が取り残されかねない。

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吉村昭著「関東大震災」(文春文庫、543円)

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