映画・テレビ

2009年2月 5日 (木)

もう少し「ノーカントリー」を読み解く。

★一夜明けて今朝。走りながらこの映画についてつらつら考えたことを。
★この映画のテーマははまさに「現代アメリカの崩壊」である。殺人鬼シガーは現代アメリカの持つ狂気の素顔である。ベトナム帰りのモスは70年代アメリカの象徴的存在である。ほっときゃいいことにわざわざ顔を突っ込んで話をややこしくしてしまう。そして保安官ベルは現代アメリカの消えかかる「良心」の代表だ。苦悩しつつ手をこまねくだけ、愚痴をこぼすだけで何もできない。原題"No Country for Old man"とは「年寄りには住みにくい世の中」みたいな意味になるのだろうが、その年寄りこそが、この保安官である。三者が三者とも今のアメリカの象徴だ。ラストで殺人鬼シガーの運転する車に突然、別の車が突っ込んでくる。ただの交通事故なのだが、あれは9.11を暗示している。傷つきつつも生き残ってよたよたと歩き始めるシガーの後ろ姿こそ今のアメリカの姿、そのものなのだ。

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2008年9月24日 (水)

初代「ゴジラ」へのオマージュ。

★人間というのは自分の想像力を超えた所に存在するものに対して、とてつもない恐怖を感じるものである。だから観るものを怖がらせたければ、最後の最後まで恐怖の所在を明示しないことだ。そしてその恐怖感はリアリティによって煽られる。
★昭和29年に日本で作られた怪獣映画の草分け「ゴジラ」。あの映画でゴジラは真夜中の東京を襲う。真っ暗闇の中で、一体何が日本の首都を攻撃しているのか分からない。ただ巨大な生き物の影と足音のみが、東京の街を破壊しながら移動していく。それに当時の人間たちのみの持ちうるリアルな戦争体験(それは例えば、真夜中に米軍の焼夷弾による空襲から逃げ惑った戦争体験だったのかもしれない)が結びついて、とてつもない恐怖感を産み出した。
★映画「クローバーフィールド」を観た。この舞台は現代のマンハッタンである。しかしストーリーの展開の仕方は「ゴジラ」とかなり似ている。違うのは彼らの恐怖に裏打ちされるリアルな戦争体験が、太平洋戦争ではなく、9.11だということ。この映画に登場する、何者かによる攻撃から逃げ惑う手持ちカメラの映し出す光景は、僕たちが繰り返し繰り返し見た、あの9.11の時のニュース映像、そのままである。そしてあの時と同じように、攻撃してくる相手が一体何者なのか、具体的なことは最後の最後まで分からないことの恐怖。この映画を観て「わけがわからなかった」という感想をよく耳にするが、わけがわからないからこそ恐怖の緊張感は持続する。そういう映画だ。
★ラストにのみ流れるこの映画のテーマ曲を聞いて、(あぁ、なるほど。やっぱり、この映画は初代「ゴジラ」への完全なオマージュだったのだな)とニンマリしたのは僕だけだろうか。

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2008年7月19日 (土)

堺雅人は、2度死ぬ。

このところ、ちょっとした「堺雅人」ブームである。僕の中でだ。
夕べの「恋愛新党」、今日お昼の「メレンゲ」、続けざまに「篤姫」再放送。おまけに、これは前にも書いたがネットで4年前の大河ドラマ「新選組!」を見直している所だが、折も折、山南総長切腹の回をついこないだ見たばかり。なんか、ずっとあの顔、見てる気がする………。

あの童顔で、どことなくナルシシズムの入った演技が、鼻についてならなかった堺君だが、山南さんは、はまり役だったな。そして徳川第13代将軍・家定公。あの、天下に名高い「バカ殿」をどうやって演じるのかがもの凄く気になっていたのだが、今回放送の家定将軍の死まで、僕的にもの凄ーーーーく納得のいく役柄、役作りだった!山南さんラストの遊女・明里とのやり取りもたまらなかったが、家定・篤姫の「夫婦囲碁」シーンもまた、毎回よかったぞ。というわけで、今週、山南切腹と家定薨去で、「堺雅人は、2度死ぬ」。

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2008年4月10日 (木)

memo

講習明けて、一日休みをもらったので、佐藤二朗初監督作品の「memo」を渋谷へ見に行く。

こころの病との戦い方は、戦わないことが最大の戦い方なのだということ。
そして、外に向かって声を出すということ。病を隠さないということ。カミングアウトすることこそが、最大の攻撃であるということ。それがもの凄く伝わってくる佳作だった。やるじゃん、二朗。

二朗君扮する、主人公の叔父さん。
これが、怖い。それが「強迫性障害」という名のこころの病からくるものなのかどうかは分からないが、彼の舞台にずっとついてまわる、笑いの陰に潜む一種の「狂気」。今回もこの叔父さんが映画の中でそれを嫌というほど発散していて怖かった。なんと言ったらいいのだろう、、、彼と、韓英恵演じる主人公とのやり取りは、あたかもフランケンシュタインと純粋無垢な少女とのやり取りを見ているかのような、きわどさ、危うさが漂っていて。怖くて、でも切なくて、悲しいんだ。

あ、それから、ここ、大事。そう。高岡早紀。
オナニーにふける亭主のバックで、ソファーに昼寝してる高岡早紀の姿がちらちらとカメラのバックに映るんだが、何の事はないこの場面の高岡早紀が、妙に生々しくて艶っぽくて。おい、二朗。お前、そういう目で、高岡早紀のこと、見てたろ………。カメラの目線は監督の目線。バレバレだぞ、おい。

映画終了後、パンフを買おうとしたら「今なら監督直筆サイン入りが1000円で」と言われて、ご祝儀の代わりに渋々(笑)高い方を購入。ありがたく思え。

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2008年2月17日 (日)

佐藤二朗という役者について。

劇団ちからこぶ、、、もとい、劇団ちからわざの「ムコウカタ」を観た。
今年小6になる娘にとっては、初観劇。二朗君の舞台を娘と一緒に観る、、、というのは
これはこれでなかなか感慨深いものがある。

彼との出会いは川崎のとある学習塾。
当時はカナダから帰国して、夢と現実の間でもがいていた頃でもあった。
夢というのは、今では口にするのもおこがましいが、映画を作ること。
でも当時は大真面目で、そのための突破口を開くべく、カナダへ1年間のワーキングホリデーに出たのである。しかし。あろうことか、彼の地で僕は、後に僕の奥さんになる人と出会い、同棲し、彼女を通じて己の甘ちゃんさ加減を嫌というほど思い知らされて、1年きっかりで日本に帰国したのであった。

帰国した僕は、映画に対する夢をいったん「棚上げ」して、学習塾で準社員の形で働いていた。ちょうどそのころ、アルバイトの時間講師としてうちの職場に現れたのが、佐藤二朗君であった。愛嬌のある大きな顔と、大きな足!そして、人懐っこい笑顔とどこか憎めないしゃべり。一聴、彼のしゃべりは完全に僕の故郷とおなじイントネーションを持っていることが分かった。「いやぁ、スガキヤのラーメンが懐かしいですょねぇ。」あ、この人、名古屋の人だ。。。

彼は文学座研究生を目指していることを自白し、やがてその通りになり、途中で抜けて渡辺えり子の「劇団○○○(さんじゅうまる)」の研修生となり、その卒業公演で主役をすっぽかし、そのおかげで渡辺えり子の旦那になるという愚を冒すことはなくなったが(彼の代役を演じた人物こそ、後の渡辺えり子のご主人である)、そのおかげでその世界にはいられなくなり、一旦は「役者やめます!」宣言を下したものの、やがて撤回して舞台を始めた。それが「ちからわざ」で、そこでの地道な活動が認められて、プロダクションを移籍。ここ数年、「あのぉ、顔の大きい、ちょっととぼけた役者は誰や?」と囁かれるくらいに、お茶の間にその姿をさらすようになった。

ちからわざは、彼の深層心理を具現化する道具である。
彼はよく「あぁ、あれはハッタリですから」とちょっとシニカルな笑み浮かべて、そう言うことがあるが、半分はハッタリかもしれないが、半分は大真面目に彼の内面世界の吐露なのだな、、、とようやく最近になって分かるような気がしてきた。

あの人は顔も体も足もデカいが、反面、恐ろしいくらいに気が小さいのだ。
それを克服するための手段としての「演技」であり、もっと言えば、それを職業としていく以外、彼に生きる手だてはないのだということ。その切羽詰まったものが、如実に表出するからこそ、彼の舞台は分かる人に認められ、彼の演技は世間からも認められ始めたのだということ。

僕はその彼の中の何か「切羽詰まった」もの、ある種の狂気が、彼の持つ独特の優しい雰囲気、何とも言えないユーモアに昇華された時こそ、役者・佐藤二朗の誕生であると信じてやまない。彼はまだ模索している。二つの相反するものの間で、もがいているような気がする。その葛藤に一刻も早く終止符を打たせたい気持ち半分、先延ばしにした気持ち半分。

追伸。3月、彼の初映画監督作品が、渋谷のシネアミューズにて上映される運びとなった。クソ。俺の棚上げしたままの夢を、横取りしやがって。

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劇団ちからわざ第9回公演「ムコウカタ」(2007/1/22〜28、新宿シアタートップス)
作/佐藤二朗、演出/堤泰之、出演/佐藤二朗、河野洋一郎、平田敦子ほか

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しゃべれども、しゃべれども、消化不良。。。

「落語」というのは実はちょっと気になる世界ではあるのだが、未だのめり込んだことがない。
「ジャズ」と同じで、これも何かの「縁」だから、その意味では僕は落語との縁がまだ、ない。
「落語」の絡む映画というのは、かつて僕のあまり好きではない森田芳光監督のデビュー作で「の・ようなもの」という映画があって、これが結構心に残っている。ま、この映画の中で落語はあくまでも小道具としての落語であって、決して落語そのものがテーマではなかったのだけれども、噺家らしからぬ伊藤克之の栃木弁丸出しのしゃべりにのせて、現代の(とはいえ、この映画は80年代初頭のものだったような気がするが)東京百景が紹介されるシーンがあったような気がする。そのシーンがすごくきれいだった。と、ようやくここでこないだ見た「しゃべれども、しゃべれども」の感想である(いやに長い枕だ)。

ラスト。
エンディング・クレジットでバックに流れる、70年代を思わせぶりなゆずの「明日天気になぁれ」と隅田川をいく水上ボートという、清々しい風景とは似ても似つかない、何とも言えない消化不良感をこの映画に感じたのは俺だけか?登場人物は主人公の噺家をはじめとして、みんな、いろんな葛藤を抱えていることはよーくわかった。うん。うん。わかるよ。わかる、、、人生いろいろ。みんな辛いよな。で?そこで「落語」はどんな効能を見せてくれる訳?ずっと、そこを期待してみていたのだけれど、最後まで「落語」の持つ意味が分からない。唐突に主人公が始める「話し方教室」って、あれ、なんか意味あったの……?何だかよく分からないままに物語は進んで、いつの間にやら主人公のやる「火焔太鼓」は結構客から受けてるし、師匠もまんざらじゃなさそうな感じだし。ん?何で?突然???太一にも香里奈にも松重さんにも、最後の最後まで感情移入できないまま、例の「とってつけたような」70年代テイストのゆずだ。う〜ん、、、納得がいかない。子役がまぁまぁおもしろいっちゃぁ、おもしろかっただけ。あ〜、「の・ようなもの」がもう一回観たくなった(で、最初に戻るw)

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平山秀幸監督作品「しゃべれども、しゃべれども」(2007、アスミック・エース)
監督/平山秀幸、脚本/奥寺佐渡子、出演/国分太一、香里奈、森永悠希、松重豊、八千草薫、伊東四朗ほか
上映時間/109分

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2007年12月 9日 (日)

「フォーン・ブース」

サスペンス映画のタイムリミットはせいぜい90分だと僕は思っている。それ以上だとダレる(笑)。この映画は81分で、まずそれはクリア。それからサスペンス映画の定番、密室劇であること。マンハッタンのど真ん中にある取り壊し間際の電話ボックス。犯人はラストシーンまで声のみの登場で、もっぱら物語は主人公の受話器への独り語りで進行していく。携帯全盛の世の中にあって、公衆電話が物語の舞台というのもアンチ・テーゼっぽくて面白い。この映画のサスペンス的面白さは、まさにアイデアの勝利である。

人は誰も罪を背負って生きている。まずはそれを認めることから始めよう、、、というのはキリストの教えだろうが、それにしても、受話器の向こうの「神の声」が、赤外線スコープで照準定めながら、主人公に懺悔を迫る、、、というのは、いかにも直情径行なアメリカ人的である。西部劇の保安官が、ならず者のたむろする酒場でバーンと一発銃をかまして、「俺が法だ!」みたいな(笑)。結局最後の最後まで、主人公に偏執狂的に付きまとう犯人の意図するところが全然見えてこないために、映画を見終わった後、何とも、すっきりしない感がつきまとうのがイタい。

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ジョエル・シューマーカー監督作品「フォーン・ブース」(2003、アメリカ)
監督/ジョエル・シューマーカー、脚本/ラリー・コーエン、出演/コリン・ファレル、フォレスト・ウィティカー、ラダ・ミッチェル、ケイティ・ホームズ、キーファー・サザーランドほか
上映時間/81分

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2007年12月 5日 (水)

「ゆれる」

女性監督らしい、透明感のある映像。押さえた演出。物語はかなり起伏のある展開をしていくのに、それを感じさせない静寂感。それだけ聞くとだれそうだが、そこをぐいぐいと物語の中に見ている人間を引っ張り込むオダギリジョーと香川照之の圧倒的な存在感!ラストシーンを是非ご覧あれ!あの香川の表情の変化こそ、この物語のハッピーエンドを象徴しているのだろう。兄は弟をついに許したのだ。レッドフォードの映画に「リバー・ランズ・スルー・イット」という映画があったが、兄弟の確執を描いているという点で少し似ているなぁと感じた。

僕にも三つ違いの弟がいる。だけど、羨望とか嫉妬とか、あまり感じたことはない。男兄弟は女姉妹ほどにはねちっこい関係にはならないらしい。(俺には俺の人生があって、あいつはあいつの人生を生きてる。それでいい。)ってな具合に、少しさめた所がある。相手の生き方に強制するつもりもないし、だからといって無視を決め込んでいる訳でもなく、盆暮れ正月には朝まで膝詰めで語り合える仲だ。と、少なくとも兄の僕は思っている。

この映画を見ながら、田舎近郊の小都会で、もうすぐ40になるのに独身貴族を謳歌して暮らしているそんな弟のことをちょっぴり思い出した。もう12月。今年の暮れはどんなテーマで語り明かそうか。


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西川美和監督作品「ゆれる」(2006、シネカノン)
監督・脚本/西川美和、出演/オダギリジョー、香川照之、伊武雅刀、新井浩文、真木よう子、蟹江敬三、木村祐一ほか
上映時間/119分

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2007年11月17日 (土)

「バイオハザードⅢ」

もともとゾンビやらスプラッターは僕の趣味ではない。あくまでも奥様の趣味である(笑)。
だけど、このシリーズは別だな。何が面白いって、「ゾンビ・キラー」アリスの存在が完全にほかのゾンビものを圧倒している。あれだけ美しくかつ強いと、何の不安もなく安心してみていられるw

「エイリアン」のシガニー・ウィバーと「ターミネーター」のリンダ・ハミルトンをしきりに想起させる映画だった。かなり意識してる?

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ラッセル・マルケイ監督作品「バイオハザードⅢ」(2007、アメリカ)
監督/ラッセル・マルケイ、脚本/ポール・W・S・アンダーソン、出演/ミラ・ジョヴォヴィッチ、オデット・フェール、アリ・ラーター、イアン・グレンほか
上映時間/94分

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2007年10月 7日 (日)

「アポカリプト」

この映画、例によって残虐シーンが多すぎるだとか、マヤ文明を冒涜しすぎるとか、賛否両論あるようだが、けどさ、実際、異文化を目の当たりにしたら、大なり小なりの差はあれど、ああ見える、ってこった。あれ見て、やれ(残虐だ!)だの、(マヤはあんな野蛮な文明じゃなかった!)だとかほざいてる輩こそが、西洋史観に毒されてるというか、現代文明観にハマっちゃってるというか、その手の人間であることに自分自身が気づいていないわけだ。

映画の中の、あのマヤの都市や、あそこで行われていたことが嘘かほんとかは知らんよ。だけど、メル・ギブソンはよくあそこまで、メル・ギブソン的マヤ世界をきちんと、丁寧に再現したなって、俺は感動した。そう。丁寧に作ってあるんだよなぁ。この人の映画って。残虐シーンが必要以上に取りざたされるのも、その辺を手抜きせずに描いちゃうからなんだろう。僕は前作の「パッション」ではさほどではなかったのだけれど、これを観て、監督としてのメル・ギブソンが好きになった。気骨を感じた。

追伸。走る主人公がもの凄く誰かに似てる!けど、誰なのか思い出せない……と思っていたのだが、ロナウジーニョだった(笑)。

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メル・ギブソン監督作品「アポカリプト」(2006、アメリカ)
監督/メル・ギブソン、脚本/メル・ギブソン、ファルハド・サフィニア、出演/ルディ・ヤングブラッド、ダリア・エルナンデス、ジョナサン・ブリュワー、モリス・バードイエローヘッドほか
上映時間/139分

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