旅行・地域

2010年4月 5日 (月)

ラテン・アメリカに、乾杯! 第1部/ボクのメキシコ一人旅

4.国境へ

 ダウンタウンの外れにあるというグレイハウンド社のバスディーポを目指して、空港前のバス停から市バスに乗る。乗り込んだ瞬間から不意に非日常が湧き出した。バスの運転手は大柄の黒人女性で、チューインガムを噛みながらいかにも旅行者然とした僕のことを訝し気に見ている。彼女の一挙一動が、まるでハリウッド映画のワンシーンに出てきそうな「アメリカ人」そのもので、僕は映画の中の世界に突然迷い込んでしまったような錯覚を覚え、それはまたとてつもなく心地のいい錯覚であった。そのままグレイハウンド社の巨大なバスディーポの中でひたすら時間を潰し、その日の深夜のバスでロスからアメリカーメキシコ国境の街・エルパソさして出発した。普通の旅人ならば、ロスから最も近いティファナからメキシコ入りするところだろうが、僕はわざわざアメリカ西部を横断してカリフォルニア州からアリゾナ州へ、さらにテキサスへと南部のど真ん中目指して進み、そこからリオグランデ川を徒歩で渡ってメキシコに入ろうとしている。なんとまぁ、遠回りの旅を選んだことか。途中フェニックス、ツーソンというアリゾナ州の街を経由して、眼前にぽっかりとエルパソの街並みが出現したのが翌日の夕方。いきなりの20時間バス旅行である。しかし、それもまた「僕の旅」にふさわしいではないか。その途中の風景もまたハリウッド映画が大好きな僕にはなじみの深い、西部の寂れた風景そのままであった。点在するサボテン。赤茶けた岩山。早朝のダイナーで飲んだ、さしてうまくもないコーヒーの味。途中で乗り込んできた保安官は、完全にクリント・イーストウッドだった。メキシコ国境を目指す最初の20時間のバスの旅は、とにかくそんなふうに目にするもの口にするもの耳にするもの手にとるもの、何もかもが非日常の産物で、僕はいちいちくだらないことに感動していた。

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2010年1月20日 (水)

ラテン・アメリカに、乾杯! 第1部/ボクのメキシコ一人旅

3.メヒコへの道
 
 アメリカ大陸に上陸したら、まっすぐロスからチワワへ飛ぶ予定だった。別にチワワ犬の産地を表敬訪問するほどの愛犬家でも、はたまた地元の英雄パンチョ・ビジャを崇拝しているわけでもない。最近旅人たちに流行の貧乏旅行指南ガイドブック「地球の歩き方・メキシコ編」によれば、チワワから太平洋岸ロス・モチスの街まで太平洋鉄道(通称CHIPS)という列車が走っていて、これが人気があるらしい。途中、バランカ・デ・コブレ(銅の谷)という名のメキシコ版グランドキャニオンの壮大な景色が拝めたり、あるいはとにかく脚が速いことで有名なタラウマラ族の暮らす集落が見られたりするというのだ。これは乗らない手はない。
 しかしそれならそれで、出発前に日本でロスーチワワ間の飛行機の予約も入れておくべきであろう。何と言っても初めての一人旅、初めての海外旅行なのだ。にもかかわらず、僕は何の手も打つことなく、東京ーロス間の往復チケットだけを持って日本を飛び出したのである。そこらへん、いかにも詰めが甘いというか、あるいはとんでもなく度胸が座っているというか、そういう間の抜けたところがいつも僕にはある。
 しかし実際のところは、別にヒコーキに拘る必要もないと考えていたことも事実である。時間と体力だけはたらふくあるのだ。ヒコーキが無理なら……バスでいいじゃないか。チワワから直線距離でアメリカに最も近い国境の街はシウダー・フアレスである。そして国境を挟んだアメリカ側の街はテキサス州エルパソ。この国境の街をスタート地点に、ユカタン半島先端の一大リゾート・カンクンまで全部を陸路で制覇する。そんなこと馬鹿げた「冒険」をやろうとするやつは、今のところラテ研に誰もいないだろうな……。初めての外国に到着早々、7月一杯の予約は全て満杯だと断られたアエロ・メヒコ航空の空港カウンターの前で、僕は一人、意気消沈するどころかほくそ笑んでいたのである。

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2010年1月19日 (火)

ラテン・アメリカに、乾杯! 第1部/ボクのメキシコ一人旅

2.S大学ラテン・アメリカ研究会

 S大ラテン・アメリカ研究会(通称ラテ研)の連中には、団体名に「ラテン・アメリカ」を標榜しているくせに「ラテン・アメリカ研究会なんだからラテン・アメリカの研究をするサークルであって然るべし」という発想そのものがなかった。彼らは学内でもちょっとした「異端児」あるいは「亜流」の集まりであった。事実、歴代部長の中には写真芸術にはまって、写真部の部長を兼ねていたものもいたし、アラビア語に熱中したあげく、一時はイスラム教徒に改宗して、どっぷりイスラム世界に染まったものいた。無論ラテン・アメリカ研究をないがしろにしたり、スペイン語研鑽に励んでいないわけではないのだが。彼らの価値観は複視眼的であり、目的に対して直線的というよりもむしろ曲線的であり、簡単に言えば「なんでもあり」であった。だから一見、無秩序で分かりにくい集団に見えた。しかし、ラテン・アメリカ社会の現実の有り様を知れば知るほど、実はラテン・アメリカという社会そのものがそういう複視眼的・曲線的社会であり、S大ラテ研こそ、それを如実に体現した組織であったことを後になって思い知ることになるのだが、それはまた別の話である。
 僕が学生時代を謳歌した80年代後半は、まさに「バブル」絶頂の時代であった。「円高ドル安」が国内の輸出産業を圧迫することに対する懸念より、若さの後押しもあって外国に飛び出すことが容易になったことへの喜びの方が大きかった。その年の春、メキシコ旅行から帰ってきた2つ上の先輩の冒険談が、僕の中の冒険心に火をつけた。彼は言った。「ごちゃごちゃ考えてる暇があるんなら、行っちゃいなよ。行ってみて、そこで初めて見えてくるものもある。必ず、なにか刺激を受けるところがあるはずだよ。」当時大学3年の僕はようやくラテ研に自分の居場所を見つけたばかりであった。しかしながら副部長職という肩書きに見合うだけの、ラテン・アメリカに対する情熱も、知識も、語学力もまるでなかったのである。それならば、まずは飛び出してみること。実物のラテン・アメリカという世界に自分自身をぶつけてみること。そこから始めるしかないと思った。1986年の夏、僕は人生初めての一人旅を敢行した。そしてそれは初めての外国体験、初めてのラテン・アメリカ体験でもあった。

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2010年1月18日 (月)

ラテン・アメリカに、乾杯! 第1部/ボクのメキシコ一人旅

1.ラジオの向こうに世界があった

 ヘッドホンをした少年が、必死の形相でラジオと向かい合っている。ヘッドホンからはノイズまじりのかすかなフォルクローレの音色が聞こえている。信号音は時折大きくなったり、次の瞬間には聞き取れないくらいに弱くなったりして、あたかも波間に漂う小舟のようだ。(絶対にIDを聞き逃さないぞ!)と少年は思う。IDとはidentification、つまり放送局名アナウンスのことで、これをきちんとチェックできなければ、その放送を受信した証拠にはならない。これはもちろん、少年が自分自身に課した約束事にすぎない。言葉はもちろん日本語ではなく、この所幾分聞き慣れたスペイン語という言葉である。しかし未だ中学に上がったばかりの少年にとってスペイン語は全く未知の言葉であり、少年の知っているスペイン語の語彙は、放送局名が告げられる際の「エスタ・エス……(こちらは……です)」と「アキー・ラーディオ………(こちらは……放送です)」だけである。それでもこの言葉の持つ軽妙なリズムと耳障りのいい響きは、少年の未知の世界への想像力をかき立てた。19時25分。唐突に、巻き舌をバリバリに効かせた軽快な男性アナウンサーの声が飛び込んできた。言葉は紛れもない、スペイン語だ。「エスタァ・エスゥ・ラーディオ・ナシオナール・デル・パラグアイ!」パラグアイ国営放送。周波数9,735MHz。初受信だ。ヘッドホンを手に立ち上がった少年が、大声で階下の母親に喜びの叫び声をあげる。「お母さん!パラグアイだよ!パラグアイが入った!」
 少年時代の僕にとって、ラジオが全てだった。国内放送を聞くだけでは飽き足らず、屋外にアンテナ線を張り巡らせて海外放送を聴取するのである。少年の僕には、何の変哲もない一台のラジオから、聞いたこともない様々な外国語やエキゾチックな民族音楽が飛び込んでくるということ自体が新鮮な驚きだった。そこで語られる言葉の意味は分からなくても、見ず知らずの国に思いを馳せて胸を高鳴らせた。やがてそれは、放送内容そのものを楽しむというよりも、日本では受信することが極めて困難な珍局・難局と言われるような放送局ばかりを狙い撃ちする、スポーツ・フィッシング的な楽しみへと変貌していく。その宝庫がラテン・アメリカだった。ラテン・アメリカは日本から最も遠く離れた地球の裏側であり、その分電波も届きにくい。また短波をローカル向けに使用する放送局が多いのである。日本語放送があったエクアドルの「アンデスの声」放送や、当時日本での受信は極めて困難と言われたアルゼンチン国営放送を皮切りに、僕はどんどんラテン・アメリカの放送局に魅了されていった。この少年の日の遠い記憶が、やがて大学時代に僕をS大学ラテン・アメリカ研究会(通称ラテ研)に所属させるに至るきっかけとなる。

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2010年1月17日 (日)

ラテン・アメリカに、乾杯!

プロローグ~1988年8月、ペルー~
 
 隣で女が眠っている。肩まで伸びた、ちじれ毛。浅黒い肌。おそらくは白人系も黒人系も、そしてインディオの血も混ざっていると思われる、典型的なメスティーソの顔立ち。女は僕の左肩に頭を乗せて、心地良さげな寝息を立てている。と、突然バスはその速度を落とし始めた。この国の、もはや「名物」と言っていい、ペルー国防軍による「コントロール(検問)」である。これは深夜であろうと早朝であろうと、おかまいなしに実施される。目的は左翼ゲリラの摘発、あるいは麻薬組織の取り締まり。これもまた80年代末~90年代初頭にかけての、南米名物であった。「…何なのよ、まったく。ほんの2,3時間前にあったばかりじゃない…ほんと、この国が嫌になるわ!」せっかく眠りについた矢先、無理矢理夢の中から現実に引き戻された女は、悪態をつきながら立ち上がる。
 ペルーの8月は真冬である。深夜の車外は結構冷え込んでいる。バスの乗客たちは鋭い目をした隊長格の男に身分証明書を差し出し、寒空の下、車内の検査が完了するのを待たねばならない。「ムーチョ・フリーオ、ノ?(寒くない?)」僕は自分が着ていたジャンパーを脱ぎ、女に羽織らせようとした。しかし女はそれをピシャリとはねつけた。「ラテン社会のマチスモ(男性優位主義)に、いい加減辟易してるの!」僕が1年あまり暮らしたメキシコでは、男が女に「かしずく」のは当たり前のこと、むしろエチケットだった。それに70年代じゃあるまいし、今更「ウーマン・リブ」もないだろう。僕は少しムッとして、しかし差し出したジャンパーを今更引っ込めるわけにもいかず、意味不明の薄ら笑いを浮かべながら困った顔をして突っ立っていた。そんな様子を察してか、「……でも、確かに寒いわね。グラシアス、セニョール(ありがとう、紳士さん)」とちょっと照れくさそうに微笑んで見せてから、女は僕の差し出したジャンパーを羽織るのだった。
 1988年、8月。23歳の僕はパン・アメリカンハイウェーをひた走る国際バスの中にいる。南へ。目指すは世界最南端の街・ウシュアイア。再び僕の隣で心地いい寝息を立て始めた女を横目に、僕は車窓の外の風景に目をやる。外には満天の星の煌めきと、どこまでも広がる灰色の砂岩以外に何も見えない。バスのエンジンが快調に回転音をあげ始めるー。

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