文化・芸術

2010年5月 6日 (木)

「生命は」 吉野弘

生命は
自分自身で完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする

生命はすべて
そのなかに欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思えることさも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光りをまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

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2009年12月 5日 (土)

星落秋風五丈原。

三国志といえば、五丈原の歌がどうしても口をついて出てきてしまう。
(って、俺、歳、いくつだよ?)

星落秋風五丈原 
(土井晩翠の歌詞より抜粋)

祁山悲愁の風更けて
陣雲暗し五丈原
零露の文は繁くして
草枯れ馬は肥ゆれども
蜀軍の旗光無く
鼓角の音も今しづか
丞相病あつかりき
丞相病あつかりき

夢寐に忘れぬ君王の
いまはの御こと畏みて
心を焦し身をつくす
暴露のつとめ幾とせか
今落葉の雨の音
大樹ひとたび倒れなば
漢室の運はたいかに
丞相病あつかりき

四海の波瀾収まらで
民は苦み天は泣き
いつかは見なん太平の
心のどけき春の夢
群雄立てことごとく
中原鹿を争ふも
たれか王者の師を学ぶ
丞相病あつかりき

嗚呼南陽の旧草廬
二十余年のいにしへの
夢はたいかに安かりし
光を包み香をかくし
隴畝(ろうほ)に民と交れば
王佐の才に富める身も
ただ一曲の梁歩吟
丞相病あつかりき

成否を誰れかあげつらふ
一死尽くしし身の誠
仰げば銀河影冴えて
無数の星斗光濃し
照すやいなや英雄の
苦心孤忠の胸ひとつ
其壮烈に感じては
鬼神も哭かむ秋の風

嗚呼五丈原秋の夜半
あらしは叫び露は泣き
銀漢清く星高く
神秘の色につつまれて
天地微かに光るとき
無量の思齎(もた)らして
千載の末今も尚
名はかんばしき諸葛亮
名はかんばしき諸葛亮

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2007年11月24日 (土)

「何日君再来ーイツノヒカキミカエルー」

その昔、「歌に思想を持ち込むな」と言って、さだまさしを批判して物議を醸したのはタモリだったか。今では僕はそのタモリの言葉の意味が多少は理解できるくらい大人になったが、当時は反発したものだ。人の心を動かすのが音楽なら、そこにその人の思いが込められるのは当たり前の話じゃないか。それを「思想」と呼ぶのなら、逆に無思想な音楽に、いったいどんな存在価値があるというのか。

音楽は、人の感情に直接訴えかけるものだ。理屈ではない。それに歌詞が付くと、とてつもないパワーを呼び起こすことがある。だからこそ、時に権力はこれを利用しようとした。劇中、テレサの歌を「最終兵器」という言葉で表現している部分が出て来るが、これはまんざら、突飛な言葉ではないのだ。その昔のタモリの「さだまさし批判」も、その辺を揶揄していたのだろう。ひょっとしたらアジアの歌姫、テレサ・テンも、ダイナマイトを発明したノーベルや原爆開発の根本原理をあみだしたアインシュタインと同じ苦悩を、抱いていたのかもしれない。

言葉によって綴られた「歌詞」は、それを受け止める人間によって様々な解釈を生む。
しかし、「歌声」には思想の入り込む余地はない。小鳥の言葉を知らなくても、小鳥のさえずりを美しいものと思い、それに心地よさを感じるのと同じである。うさんくさい言葉よりも「音色」や「歌声」は信じるに足る。

この舞台で言うならば、筧利夫や黒木メイサの熱演も、僕にとっては「脇」であって、主人公はあくまでもテレサ・テンの歌った歌であり、まるで彼女本人が乗り移ったかのような、en-Rayのどこまでも澄み切った歌声なのである。あえて誤解を恐れずに言うのなら、筧の台詞は嘘臭くても(笑)、en-Rayの歌声には鳥肌が立ったということである。歌で世界は変えられるかもしれないと信じさせるに足る、歌声であった。

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岡村俊一演出「何日君再来ーイツノヒカキミカエルー」(2007年5月、日生劇場)
演出/岡村俊一、脚本/羽原大介、出演/筧利夫、黒木メイサ、藤原一裕、石川梨華、遠山俊也、en-Rayほか

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